因幡堰土地改良区の歴史

新関因幡守久正公から酒井忠真公へ継がれた農民の悲願

因幡公

因幡公

 慶長6年(1601)最上義光は新関因幡守久正を藤島城主として配置しました。この当時の藤島は、南北朝の争乱期の戦禍、天正16年(1588)の千安合戦、さらには天正18年(1590)の藤島一揆と続き、形を留めないほど荒廃していました。このような時期に着任した因幡守は地元民の長い間の願いであった赤川から藤島領内に引く用水溝開削工事、いわゆる因幡堰開削を慶長12年(1607)に着手しています。

 ところが、元和8年(1622)の最上氏改易により、因幡守は庄内を去ることになります。自領十数ヶ村の累年の干ばつを救い、また新堰の開削によって広大な新田の開発を夢見た因幡堰の開削は、志半ばにして中止を余儀なくされたものです。失意に落ちたのは農民も同じでした。しかし、その後も産土神に参篭し、あるいは羽黒山に起請文を奉納し、また、郡奉行を介して藩に対して働きかけを行うなど、工事続行を願う運動は地元農民によって絶え間なく続けられていったのです。そのかいあって、元禄2年(1689)、ようやく工事が再開されました。この工事により、因幡守の意図した用水溝は一応形態は整えたものの、急速に進む新田開発という時代の流れに十分応えられるものではありませんでした。したがって、その後も農民による用水増強の運動は活発に続けられていきました。

因幡公菩薩寺「法眼寺」

因幡公菩薩寺「法眼寺」
因幡公の命日(4月28日)に大般若が行われる。

 そして、宝永2年(1705)、庄内地方は大干ばつに見舞われます。特に藤島郷の用水不足は顕著で、困窮を極めていました。当時の藩主、酒井忠真公は農民の苦しみを目の当たりにし、自ら付近の実態調査を行っています。同時に、干ばつの度に苦しみあえぐ農民の実態を聞くに及び、直ちに因幡堰の大改修を英断したのです。工事は、堰の幅を広げるとともに、水溝の高さも改修するなど、難工事でしたが、日中を避けて夜中の普請としたり、塩を混ぜて堰台を固めるなどの対策が取られ、困難を克服し、宝永3年(1706)遂に完成を見たのです。

因幡公の墓

因幡公の墓

 その後、幾度かの改修工事が行われましたが、宝暦4年(1754)、工事完成の日に、監督に当たった大堰守田沢勘七が「人柱となって永くこの桶を譲る」と遺言して自刃しています。因幡堰がいかに重要な堰であるのかを物語る逸話ですが、その後も先人達のたゆまぬ努力によって、因幡堰は時代時代にその流れを変えながら、美田を増やし、守り続けられたのです。

 近年、防火用水や洗い場等の地域用水としての利用、さらに、集落内を部分的に石積水路として潤いを持たせることなどが検討され、「地域の資産」としての認識が持たれております。

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